能狂言
中心の時代
(中世)

 関市の春日神社には61の能狂言の面が伝わり、南北朝時代から、祭礼時に能が奉納されていたことがうかがえます。同じような面は、郡上市白鳥町や揖斐郡揖斐川町の神社にも残されていて、能は美濃地方・飛騨地方の各地の神社等で上演されていたと考えられています。
 また、本巣市の根尾能郷(のうご)白山神社には、安土桃山時代の1598(慶長3)年の奥書がある能狂言の台本が伝わっています。

請芝居
盛んな時代
(江戸前・中期)

 江戸時代の前期から中期にかけて、現在の岐阜市でも芝居の興行が始まり、伊奈波神社の前に芝居小屋が立ったという記録が残っています。また、中濃から東濃地方、西濃地方にかけても、「請芝居(うけしばい)」が盛んに行われるようになりました。
 「請芝居」とは、地方回りの芝居の一座を迎え、その土地の有力者が責任者となって興行する芝居のことを言います。興行に招かれたのは、先進地名古屋に近い地域の一座でした。
 中世の芸能は、娯楽性よりも神事性が強かったと考えられますが、江戸時代に入り世の中が平和になると、人々は芝居に娯楽を求めるようになっていったようです。

地歌舞伎
盛んな時代
(江戸後期)

 操(あやつり=人形浄瑠璃)や狂言(歌舞伎)の請芝居を楽しんだ村人は、やがて自分たちで舞台や道具を造り、自らが出演者となって演じるようになります。地芝居の始まりです。
 中濃地方から始まった地芝居は、江戸後期には東濃地方や西濃地方に広がり、飛騨地方にも農村舞台が造られるようになっていきます。
 こうして江戸末期には、地芝居は岐阜県全域に広がっていったのです。

どの町村にも
地芝居の舞台が
あった時代(近代)

 維新によって誕生した明治政府は、勤労意欲をなくし風俗を乱すとして、地芝居を厳重に取り締まりました。1886(明治19)年の岐阜日日新聞には、「東濃の地芝居と西濃の花火は岐阜県の2つの大きな悩みの種である」といった記事が掲載されました。
 しかし、地元の芝居熱は冷めることなく明治20年代になると地芝居は県全域で再び盛んになり、どの町村にも芝居小屋かそれを含めた集会場が置かれました。
 1971(昭和46)年の調査によると、県内で確認された農村舞台の数は264を数え、全国で最多となっています。